午前3時14分。部屋の明かりは消え、PCモニターの青白い光だけが、私の生気のない顔を照らしていた。
手元には温くなって不味くなったコーヒー。画面には、何度も書き直しては消したNotionのページ。タイトルは「事業計画案」。その下には、どこかのインフルエンサーが言っていたような薄っぺらい単語が数行並んでいるだけで、実質的な中身は「無」だ。
ブラウザの別タブでは、年下の起業家が資金調達に成功したというニュースが輝いている。
「こいつ、自分より馬鹿だと思ってたのに…」
嫉妬と自己嫌悪が混ざった粘着質の液体が、胃のあたりからせり上がってくる。キーボードを叩く音だけが虚しく響く。カチャカチャって音だけして、画面には何も生まれてない。
自分の呼吸音がうるさい。世界で俺だけが止まってる感覚。
隣で妻が寝返りを打った。明日も朝7時には起きて、子供を保育園に送らなければならない。俺は35歳で、年収は500万円。悪くはないが、このままでは子供の教育費も、家のローンも、老後の貯金も全部中途半端になる。
「起業しなきゃ」という焦りだけが膨らんで、アイデアは何一つ生まれない。
あのとき、私は完全に迷子だった。
失敗体験談:情報商材に数十万円…いや、それ以上を溶かした3年間
最初に手を出したのは、「インフルエンサー養成スクール」だった。
「これからは個人の時代!SNSで稼ぐ方法を教えます!」
受講料は決して安くなかった。クレジットカードの分割払いで申し込んだ。
毎日、Twitterで「有益情報」を発信し続けた。朝5時に起きて、ビジネス書を読み、要約をツイート。昼休みにもスマホを開いて、リプライを返す。夜は子供を寝かしつけた後、深夜までコンテンツ作り。
半年後、フォロワーは1000人にも届かなかった。
講師に相談すると、「まだ努力が足りないんですよ。成功者は皆、1日10時間は作業してます」と言われた。
「もうダメかもしれない…このままじゃ家族に申し訳ない…」
妻に「また夜更かし?体壊すよ」と言われた夜、私はスマホを置いた。
フォロワー数だけが目標になっていた。お金を稼ぐ方法も、誰の悩みを解決するのかも、何も見えていなかった。ホワイトボードに「プラットフォーム」とか「AI活用」とか書き殴ってみたけど、結局俺がやりたいことじゃなくて「儲かりそうなこと」のパクリだと気づいた瞬間、マジで吐き気がした。
それから1年、私は「次こそは」と思いながら、プログラミングスクール、物販コンサル、Webマーケ講座…いろんな情報商材に手を出した。
気づけば、貯金通帳の残高は見るのも恐ろしい数字になっていた。正確には覚えていない。いや、覚えたくない。数十万円では済まなかった。それ以上だったかもしれない。
締め切った部屋の澱んだ空気。自分の体臭と、吸い殻の匂い。耳鳴りのような静寂の中で、スマホの通知音だけが鋭く響く。SNSで流れてくる「起業仲間」たちの楽しげな写真。画面の向こうは彩度が高いのに、自分の周りだけ彩度が落ちて、灰色に見える。
喉の奥に、常に何か詰まっているような違和感があった。
「革新的アイデア」を探すほど、視界がゼロになる
ある日、友人に自分のアイデアを話した。
「で、それ誰が金払うの?お前にお金払う理由ある?」
真顔で言われて、何も言い返せず笑って誤魔化した。
帰り道、死にたくなった。
私が気づいていなかったのは、自分が探していたのは「ビジネスモデル」ではなく、「現状の自分を否定せずに、魔法のように救ってくれる『何か』」だったということだ。
建前では「課題解決」「世の中を良くしたい」と言っていたが、深層心理ではそんなことはどうでもよかった。
ただ、今の惨めな自分から脱却し、他人を見下せる位置に行きたいだけだった。満員電車に揺られる社畜を見下しながら、タワマンで勝ち組気分に浸りたいだけだった。アイデアが出ないことへの焦りは、「何もしないまま死ぬ凡人」として確定することへの恐怖でしかなかった。
そして、もっと残酷な真実に気づいた。
私は「リスクゼロで億万長者になれるアイデア以外は却下」していたのだ。
成功したいが、失敗して借金を背負うのは嫌だ。自由になりたいが、毎月振り込まれる給料の安心感も捨てがたい。アクセルとブレーキを同時に踏み続け、エンジンだけが空回りして焼き付きそうだった。
転機:「生存者バイアス」という名の罠に気づいた日
大学時代の友人と久しぶりに会った。
彼は地味な内装業を営んでいる。詳しい収入は教えてくれなかったが、身につけている時計、運転している車、そして何より余裕のある表情を見れば、少なくとも私よりは安定しているのは明らかだった。
「お前、起業するんだって?どんなビジネス?」
私は答えられなかった。
「いや…まだアイデアが固まってなくて」
彼は笑った。
「俺もさ、最初は『すごいビジネス』やりたかったんだよ。でもある日、親父の工務店手伝ってたら、お客さんが『壁紙の張り替え、どこに頼めばいいか分からない』って困ってたんだよね。で、『じゃあ俺がやります』って言ったら、めちゃくちゃ感謝された。それが最初の売上」
「目の前にいる『困ってる人』に気づくかどうかだよ」
その言葉が、私の脳に突き刺さった。
その後、彼はもう一つ重要なことを教えてくれた。
「ネットで見る成功者の話、全部信じちゃダメだよ。あれ『生存者バイアス』って言うんだって。成功した奴だけが語るから、『これをやれば成功する』って見えるけど、実際には同じことやって死んだ奴が何千人もいるんだよ」
彼は第二次世界大戦の爆撃機の話をしてくれた。
帰還した機体の「弾痕が多い箇所」を補強しようとした軍に対し、数学者は「弾痕がない箇所を補強せよ」と言った。そこを撃たれた機体は帰ってきていない(墜落した)からだ。
「成功者の『諦めなかったから成功した』って言葉を信じて、撤退すべきタイミングを見誤って破産した奴、めちゃくちゃいるんだよ。大事なのは『どこで撤退するか』を決めてから始めること」
「完璧なアイデア」という幻想が、あなたを殺す
私はその日から、考え方を変えた。
「革新的なアイデア」を探すのをやめて、自分の日常で「イライラすること」をメモし始めた。
- 子供の保育園の連絡帳、毎日手書きで面倒くさい
- ゴミ出しの曜日、いつも忘れる
- 近所のスーパー、夕方は駐車場が満車で入れない
- 仕事の資料、いつもどこに保存したか分からなくなる
- 会社の飲み会の日程調整、LINEグループがぐちゃぐちゃになる
これ、全部「誰かの悩み」だ。
そして、もっと周りを観察した。
妻は毎朝、子供の服のコーディネートに悩んでいる。
会社の同僚は、副業を始めたいけど「確定申告が怖い」と言っている。
近所のおばあちゃんは、スマホの使い方が分からず、孫に電話できないと嘆いている。
マンションの管理人さんは、「電球交換だけ頼める業者がない」と困っている。
全部、ビジネスになる。
「華やかなビジネス」ではなく「誰もやりたがらない仕事」に答えがある
ネットで推奨される「カフェ」「ゲストハウス」「Webデザイン」「動画編集」。
帝国データバンクの倒産情報を調べると、これらの華やかな業種の多くが開業から数年で姿を消していた。
逆に、統計データを見ると、生存率が高いのは華やかなITやカフェではなく、以下の「汚れ仕事・代行業務」だった。
- 特殊清掃・遺品整理(孤独死社会における需要爆発)
- 害虫・害獣駆除(誰もやりたがらないが、緊急性が高く高単価)
- 高齢者向け御用聞き(電球交換、草むしり、泥臭い信頼の切り売り)
- 葬儀・霊園関連(不況に左右されない究極の安定産業)
私は最終的に、「地域限定の家事代行マッチングサービス」を始めた。
革新的でも何でもない。既に大手企業がやっている。
でも、私が住んでいる地方都市では、大手サービスが対応していないエリアが多かった。そして、近所の主婦たちは「ちょっとした困りごと」を頼める人がいなくて困っていた。
- 「電球交換だけ頼みたい」
- 「子供の送迎だけ手伝ってほしい」
- 「庭の草むしり、1時間だけでいい」
私は、近所の主婦数人に声をかけて、簡単なマッチングシステムを作った。最初の月の売上は、正直大したことはなかった。でも数字の問題じゃなかった。
利用者から「助かった!」というメッセージが届いた瞬間、涙が出そうになった。
「これでいいんだ」
プライドを捨てた。「世界を変える」なんて大それた野望も捨てた。
ただ、目の前の「誰かの小さな困りごと」を拾っただけだ。
起業アイデアを「発明」するな。「発見」しろ
多くの人が勘違いしているのは、「起業アイデアは天才的なひらめきから生まれる」という思い込みだ。
でも実際は、ほとんどの成功ビジネスは「既存のアイデア」の組み合わせか、「誰も気づいていなかった小さな問題」の発見から生まれている。
- Amazonは「本のネット販売」から始まった(革新的?いや、ただの通販)
- Airbnbは「自分の部屋を貸す」というシンプルなアイデア
- Uberは「白タクの合法化」にすぎない
彼らが特別だったのは、「誰もやっていない新しいこと」を思いついたからではない。
「みんなが見逃している問題」に気づいたからだ。
あなたが今日からできる3つのこと
1. 自分の「イライラリスト」を作る
今日から1週間、自分が日常で感じる「イライラ」「不便」「めんどくさい」をスマホにメモしてください。
- 仕事で面倒なこと
- 家事で手間がかかること
- 買い物で不便なこと
- 人間関係で困ること
その中に、ビジネスの種がある。
2. 身近な人に「何に困ってる?」と聞く
家族、友人、同僚、近所の人。
「最近、何か困ってることない?」と聞いてみてください。
多くの人は、「これくらい、みんな我慢してるでしょ」と思っている悩みを抱えている。それがビジネスチャンスです。
3. 「小さく始める」を徹底する
最初から完璧なビジネスプランはいらない。
- まず1人の悩みを解決してみる
- まず1000円でもいいから稼いでみる
- まず1週間だけ試してみる
行動することで、初めて「本当に必要なアイデア」が見えてくる。
「答え探し」をやめた瞬間、世界が変わる
私は今、あの頃の自分に言いたい。
「お前は何も間違っていない。ただ、見る場所を間違えていただけだ」
起業アイデアは、どこか遠くにあるわけじゃない。
今、あなたの目の前にある。
あなたが毎日感じている「めんどくさい」「これ、もっと楽にならないかな」という小さなイライラの中に、全部ある。
画面のカーソルが点滅してるのを見てるだけで涙が出てきた、あの夜。
アイデアがないんじゃなかった。社会に対して提供できる価値が自分には1ミリもないという恐怖に支配されていただけだった。
でも、それは嘘だった。
あなたは「無能」なんかじゃない。ただ「優秀すぎて」、高いところばかり見ていただけだ。
最後に――地雷マップを持って歩け
成功者の声は、あなたに強烈なドーパミンを与える。「自分にもできる」「世界はシンプルだ」「努力は報われる」という甘い幻覚を見せてくれる。
でも、それは現実の複雑な変数を無視した「後知恵バイアス」の塊だ。
起業において最も参考になるデータは、「成功した方法」ではなく、**「今の自分と同じ属性の人間が、どこで躓き、なぜ撤退したか」という『死因のデータ』**だ。
地雷の埋まっている場所を知らずに、ゴールの光だけを見つめて走る行為を、人類は「無謀」と呼ぶ。
「革新的なアイデア」を探すな。
視線を下げろ。足元を見ろ。
目の前の「誰かの小さな困りごと」を、ただ拾え。
それが、あなたのビジネスになる。
あなたの起業は、今日から始まる。
